こんにちは!ミャザです。
今回は中国史の神話の時代について簡単にまとめました。
僕は、中国に1年間留学するにあたって、ほとんど中国語の勉強ばかりでした。
今になって、より中国の色々なことを知りたいと思うようになり、
中国について一番気になっているのが「中国の歴史」についてです。
まだ勉強途中ではありますが、
このブログを通して、これから皆さんと一緒に中国について学んでいけたらと思います!
目次
1.三皇五帝
中国史は三皇五帝から始まりますが、実話と神話との整合性は分かっていません。
まず三皇とは、
天皇(てんこう):伏羲(ふくぎ)
地皇(ちこう):女媧(じょか)
人皇(じんこう){泰皇(たいこう)}:神農(しんのう)
とされる「三柱の神」
伝説上では、伏羲と女媧は蛇身人面、神農は人身牛首であった。
※他にも様々な神が存在し、どの神を三皇とするかは諸説あります。
三皇の次の時代は五帝
五帝は文目の基礎を築いた5人の帝王のことで、
最初の黄帝は軒轅(けんえん)
次が、顓頊(せんぎょく)
帝嚳(ていこく)
堯(ぎょう)
最後が、舜(しゅん)
となります。
五帝のエピソードを簡単に説明すると、
1.1 初代 軒轅(けんえん)
生まれながらの神童で、
生まれてすぐに言葉を話し幼いころから知恵がまわったそうです。
当時の中国は炎帝の子孫が治めており、
炎帝と軒轅の戦いが始まります。
その主戦場となった地名から「飯泉の戦い」といい、
この戦いが中国史上最初の大きな戦いとされています。
三回にわたる戦いで軒轅が勝利し、天子(王)の座に就きました。
軒轅は武力だけでなく、
「養蚕」、「衣服」、「牛馬者」、「文字」、「音律」、「医学」、「水運」
などの創始者と言われているそうです。
1.2 二代目 顓頊(せんぎょく)
物静かで奥ゆかしかったが、
物事に広く通じ知識が深かった。
1.3 三代目 嚳(こく) 軒轅の曾孫
この人物も生まれながらの神童で
生まれるとすぐに自分の名前を言ったといいます。
自らは利を求めず賢くて
遠い先のことまで見通していました。
二代目、三代目は、実際にどのような業績を残したか「史記」には記されていない
1.4 四代目 堯(ぎょう) 嚳の子
この人物も理想的な人格者で「史記」では、とても誉めて書いており、
「その人徳は天の如く、その知は神の如くで、
人々は太陽を慕うように彼を慕い、雲を望むように彼を望んだ」
とあります。
堯は富はあっても驕らず、質素に暮らしその治世は70年に及んだ。
その功績の一つが一年を365日、12カ月と定めたこと、
3年に一回閏月を設けることも決めた。
1.5 最後 舜(しゅん)
堯の子ではなく、
堯は自分の息子の出来が良くなかったのを知って
民間に埋もれていた舜を見出して
摂政に抜擢し自分の娘と結婚させました。
舜は民間にいたとはいえ
顓頊の六世の孫にあたり
黄帝の子孫であることには変わりなかった
2.神話か実話か
「中国4000年の歴史」とはこの時代からのことを言います。
夏は17代、約450年続いたとされます
舜の後を継いだのはその臣下だった「禹(う)」であり、
禹が【夏】王朝 を開きました
舜の時代に禹が13年かけ、治水工事を完成させました。
中国は黄河と長江という2つの大河が流れる国なので、
その河が氾濫しよく大洪水になったそうです
その時代の中国人にとって洪水を防いでくれる人こそが
最大の英雄だった。
中国史には人間同士が戦う歴史の前に自然との戦いがあり、
それに勝利したものが最初の英雄になったとされます。
最後の王の桀王(けつおう)は暴君とされ、
有力者の一人であった湯(とう)によって追放される。
【夏】が滅亡し、【殷】(いん)が開かれる
3.国家の最小単位
【殷】が開かれたのは紀元前16世紀ごろで、第30代 紀元前11世紀ごろまで続く
湯が【殷】王朝 を開きました
当時の中国では、氏族ごとに「邑(ゆう)」という集落で暮らしており、邑は外敵からの侵入から守るため、四方を壁で囲み、内部と周辺が支配区域となっていました。
もともと湯王は「商(しょう)」という大きな邑(大邑)の支配者で、
大邑を中心とした半径20キロを直接統治していました。
☆「国」という字は、中の大切なものを守るために、四角で囲った象形文字
湯王のエピソード
殷王の重要な仕事は、「祭祀」、「卜占(占い)」
この時代に、何年にもわたり旱魃(かんばつ)が続きました。湯王はそれを自分の罪だとして髪と爪を切り、さらに薪の上に乗って自分を焼こうとしました。すると大雨が降り人々は飢えから救われたといいます。当時、「天変地異」は王の責任とされていたのです。
世界遺産に登録されている遺跡、
殷の都であったと考えられる「殷墟(いんきょ)」で、
古代の文字で刻まれた甲骨(亀の甲羅や生き物の肩甲骨)が発見された。
殷時代の文字だと推測されます。
「殷墟」には、
大規模な宮殿、
住居の跡、
埋葬施設である埋墓、
大量の甲骨や青銅器が出土しました
第19代の盤庚(ばんこう)の時に作られた都が殷墟です
最後の王、第30代の「紂王(ちゅうおう)」は傲慢な性格で、反乱がおこり殷が滅亡しました
紂王が民心を失い、「姫昌(きしょう)」に衆望が集まり、姫昌の後を継いだ息子の「姫発(きはつ)」が兵を挙げ紂王を討ちました。
【殷】が滅亡し、【周】(しゅう)が開かれます
最後に
周の時代は「西周」と「東周」に分かれ、「東周」はマンガでおなじみの「キングダム」のモデルとなった時代です。
次は、周王朝についてまとめたいと思います。
神話時代の中国史は戦争などではなく、
自然との戦いが主で、
考え方も習慣も神話のような話が多いですね。
僕的には夏王朝はあってほしいし、
より昔のことが分かるものが発見されることを楽しみにしています。
皆さんの好奇心の一歩目を踏み出すきっかけとなったら嬉しいです。